マイステージ

 俺がヒップホップに出会ったのは13の夏だった。
 当時スラム街でくそったれみてえな生活を送っていた俺は、ある日盗んできたラジオから流れだした、その独特のリズムの音楽を聴いたんだ。
 ループ感の強え音楽なんて聴いたの、ガキだった俺はそんときが初めてだった。
 黒人音楽を馬鹿にしてた白人の俺が、恥ずかしく思えた。
 なんつう面白さだ。そんで、なんつう豊かな音楽なんだ。ヒップホップは魂がねえなんて聴く事もあるが、俺は逆だと思う。ヒップホップはイコール魂だ。
 すぐさま俺はヒップホップにハマった。数え切れねえ犯罪に手を出してレコードを集め、DJの真似事を始めた。やがて自分でもラップを口ずさむようになり、気付けばラッパーと呼ばれてた。
 ギャングと根深い関係のあるヒップホップは命の危険も多い。これまで、数多くの仲間が死んだ。クルーと呼び合って親しんだあいつらはもうこの世にはいない。
 何よりも辛えのは、仲間が敵になる事だった。ディスのいきすぎが摩擦を引き起こして、俺の元を離れてく。そんな経験は一回じゃ済まなかった。
 年を経るにつれラップから離れソウルやジャズに傾倒してく連中も多かった。そいつらにも、成功する奴、落ちていく奴、それぞれいた。
 そして、今。この瞬間。
 ヒップホップに出会って10年? 20年? いやいや、30年だ。
 未だステージに立っていられる事を幸せに思う。
 今日も刻むライミング。

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ランナーズハイ

 ゴールが見えた。
 長かった。スタートからどれだけの時間が経っているのか……俺には全然わからない。
 ここまでの距離、42.195km。もうすぐ、やり遂げられる。
 だが、俺は今猛烈に足が痛い。
 やばい。倒れ込んでしまいそうだ。背中の汗が気持ち悪い。
 最後に水分を取ったのはいつの事だったのか。クソ、こんな事なら……補給用の水を全て飲み干しておくんだった。
 あぁ。意識が朦朧とする。ゴールテープはもうあそこに見えているのに。
 俺の前を走る奴はいない。一位だ。今、俺は、このマラソンでダントツの一位。
「気を付けて! 瞬!」
 麻奈美の声が聞こえた。
 そうか。お前、ゴールで俺を待っていてくれたのか。
 だが、気を付けてって何に?
 まさか……後ろから俺へ迫っている奴がいるのか? 工業高校の、あいつか?
 そんな、クソ、なんてこった。
 俺はもう限界だ。足は痛いし、顔は燃えそうに熱い。水分は枯れ果てて、もう汗さえ流れない。
 やばいやばいやばい!
 脱水症状? そんなまさか? そんなもんで俺の優勝を失ってたまるか!
 そうは思っても、俺の体は言う事をきかない。
 ふざけるな! 動け! 動け!
「頑張って! 瞬!」
 また、声が聞こえた。
「頑張れ! 負けるな!」
「努力を無駄にするな!」
「あと少しだ!]
 今度は、麻奈美だけじゃない。俺のチームのみんなが、声援を送ってくれていた。
 不思議と足が軽くなったような気がした。
 背後からは奴の吐息が聞こえる。
 それを遠ざけるべく、俺は走った。ただ全力で。
 持てるもの全部失っても良い! 足がちぎれても構わない!
 走って、いつしか、気付くと。
 俺はゴールテープを切っていた。
 周りに、みんなの笑顔が見えた。
 …………つまり、俺はやり遂げた。走りきったのだ。

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恩の返し方

 私は大野重雄という。祖父の代からの酒屋、大野酒店を営んでいる。
 早くに妻を亡くし、娘と二人きりの生活を送っているが、それなりに幸せな暮らしではある。
 ある時、店に二人の客がやってきた。
 一人は見るからに不機嫌そうな中年の男。
 もう一人はフランクな外国人の青年だ。
 中年の男は店へ入ると、すぐに棚から一升2100円の焼酎を掴み取り、カウンターへ叩きつけた。
 乱暴だなぁ、などと思っていると、今度は財布から千円札を2枚取り出し放る。
 100円足りていないが、硬貨を出す様子もない。
 そこで私は、
「お客さん……そちらの商品、2100円になります。恐れ入りますが」
「ちっ」
 小さな舌打ちが聞こえた。
 すぐに男は100円玉を取り出し私へ向けて放ると、いそいそと店を出て行った。
 対して、外国人の青年はと言えば、うきうきとしながらワインを片手にこちらへとやってくる。
「1200円になります」
「オウ?」
 青年が声を上げる。すぐさま服のポケットを漁りだすが、
「サイフ、ナイ」
「どこかで落とされたんですか?」
「ハイ……」
 今にも青年は泣きそうな表情を浮かべる。
 その顔があまりにも哀れだったので、私は言った。
「宜しければ私が一緒に探しましょうか?」
「ホント?」
 青年は喜んだ。
 ともかく財布を見つけるには警察に頼るのが一番である。
「そこに交番があるので行きましょう」
「デモ……オミセ」
「少しの間閉めておきましょう」
「ワタシ、ミセミテル。イッテキテ」
 青年は胸を叩いた。
 なるほど、と思い、私は店を出る。
 交番で事情を説明し、店へ戻ると、そこには先ほどの男に組み敷かれた外国人の青年がいた。
「何をしてるんですか!」
「こいつが店の物を盗ろうとしていた」
 私は驚いた。
 そして青年を信じ切っていた自分が恥ずかしくなった。
 私はとにかく中年の男へ礼を言った。
 彼は生来恥ずかしがり屋で、あのような態度になってしまっていたのだという。
 人は見かけによらない。
 その事をよく思い知った一日だった。

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桜舞い散る季節に想う

 病床に耽る私にとって、春に窓から見える淡色の景色はまるで織姫と彦星が再会したかのような気持ちにさせられる。
 桃色ではなくて、桜色。この花びらはやはり桜色としか形容できない。他の言葉に置き換えるのは失礼だと思う。
 桜色はやがて緑に、そして枯れ色に。最後は地に落ちて、また桜色が戻る。
 一年で一周期。何度も繰り返し見た景色。だからこそ、この桜色は映える。
 日がな窓から病室へと入る桜の花びらを集めていると、やがてそれは手の平から溢れそうになる。
 その度に私は頭を悩ませる。これはどうすれば良いんだろう。捨てるわけにもいかないし、だからってこのままにもしておけない。
 決まって、最後に私は外の景色へその花びらを返す。あるべき場所へ戻す。
 窓を境にして、その淡色の景色と私の病室は別世界に分けられてる。
 暗く淀んだ病室からじゃ外の景色には届かない。
 ――――いつの頃だったか、桜の木に登っていた男の子がいた事を思い出す。
 初めはあの子もいたずらでそうしていたんだと思う。
 けど、私に見つかって、それからは私とお喋りをするために窓の外に現れてくれた。
 私にとってそれは淡色の景色に直に触れているようで、とても暖かな想いで胸が満たされた。
 今はもうあの男の子はいない。
 桜の季節が終わり、男の子はいなくなった。
 だからこそ私は思い出す。
 あの子は今頃どこでどうしているのだろう。
 桜舞い散る季節に、私は想う。

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川向こうに立つ人

 ざざぁ、と音がした。
 私はいつからここに居たのか、それすらもわからない。
 しかし私の目の前には巨大な川があった。
 左を見ても、右を見ても、川はどこまでも続いている。
 足下には石ころが無数に転がっていた。
 辺りには霧が立ちこめている。背後を振り返っても、その向こうの景色は薄らとも見えなかった。
 川の水は白く濁っていて、底がどこまで続いているのかわからない。もしかしたら地の底まで繋がっていたのだとしても不思議ではない。水面を見ていると、不安な思いばかりが増していく。
 霧と川の水とで、景色は真っ白に染められている。
 急に、居ても立ってもいられなくなった。
 私はどうしてここにいるんだろう。不安が押し寄せる。
 ふと顔を上げる。
 いつの間にか、霧が晴れていた。が、それは川向こうのみ。
 川の向こう側のみ、霧が晴れ、草地がその姿を見せていた。
 小さな花の点点と咲くその地は幻想的だった。
 あそこに行こう。私は思った。
 川辺に小さな木船が放ってある。これを使えば向こう岸に渡る事ができるだろう。
 木船を川に浮かべる。
 重心に気を配りながら、木船の中へ足を踏み入れる。
 オールがないため、両手で川の水をかき前方へと進む。
 やがて、木船は岸辺へと着いた。
 岸辺には人が立っていた。
 私は驚いた。その顔は……数年前に事故で命を落とした私の父だったのだ。
 父は激怒していた。
 私を見下ろして、両手を握りしめていた。
 私は幼い頃の記憶が蘇り恐怖を覚えた。
 すぐさま川を引き返し、そのまま霧の中を走り抜ける。
 ――――目を覚ますと、私の目の前には妻の顔があった。
「ああぁ良かった!起きた!起きたわ!」
 そこは病室だった。私は、父と同じように、事故に遭い、ここへ搬送されていたのだった。
 ……父は、どうやらその表情でもって私を死地から追いやったのだろう。
 しばらく考えた後、亡くなってまで私を守る父へ、そっと感謝を捧げた。

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卒業の日

 高校三年の冬。
 年を越し、志望校の受験が終わると、高校の授業への参加が任意となった。
 学校によってこの期間は様々らしいが、ウチはどうやら長い方に入るらしく、実に二週間もの間が任意授業である。
 当然、(受験の為に)学ぶ必要もなくなり、必須でもなくなった授業への参加者は少ない。
 今もクラスの席を埋めているの生徒は三分の一程度だ。
 教師の方も大概は適当な授業しか行わない。やる気が失われているのがぱっと見てわかる。たまに熱心な教師もいるが、生徒の受講態度との差が痛々しい。
 卒業式まで、残り一週間。
 本当にこの日々があと一週間で終わってしまうのか少し疑問ではあるが、当然、その疑問もばかばかしいものだ。全ての事には終わりがある。高校生は三年で卒業するものだ。そこに異を唱えられるわけがない。皆勤出席している俺だ、単位が足りずに留年という事もあるまい。
 しかしそれでも俺はこうして授業に出ずにはいられない。
 残り一週間。
 今、ここで授業に出席しなければ、高校の授業は永遠に受けられないのだ。
 小学校や中学校とは違う、卒業すればこのクラスメイトが一堂に会する機会もそうそうないだろう。
 そう考えると胸に喪失感が押し寄せる。
 ちらと隣の友人の顔を見やる。気だるそうに漫画を読む彼の顔は、高校三年の三月とは思えない。
 この教室で今、卒業に対してつまらない想いを抱いているのは俺だけなのかもしれない。
 ――だが、確かにクラスメイトは涙するのだ。卒業の日に。おそらく。きっと。絶対に。

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病室にて

 ベッドの上には妹の姿があった。
 幼い頃から大病を煩い、回復の手立てはなし。
 徐々に死に至る病は医者から見放されたも同然だった。
 延命のために入院をし、その費用を払い続けるためにあくせく働く父、母、俺。
 それでもやはり妹の死を回避する事はできなかった。
 絶望感だけが、ただ俺の胸中にある。
 どれだけの努力を重ねても俺は妹を救えなかった。その事実一点が俺を苦しめる。
 両親も同じ想いだろう。
 妹の死も、ただただ辛い。
 妹の生は家族の願いだった。だが、現実はそれを踏みにじった。
 ……妹の顔は青白い。生きているようには見えない。
 頭皮からは薬の副作用で全ての毛が抜け落ち、それを隠すように頭には包帯を巻いている。女の子なのだから、禿頭なんて家族にさえ見られたくないだろう。
 ちらりと両親の顔を伺う。
 こちらも妹と同じように死人のような顔色をしていた。口を僅かに開き、目の下に隈を作って妹を見下ろす無表情は、とてもこの世の物とは思えない。
 妹からチューブで繋がれた機器のディスプレイに、緑色の軸がぶれているのが確認できる。妹がまだ生きている証拠だ。
 いつから俺たちはここに立っていただろう。
 医者に、「もう目覚める事無く息を引き取るかもしれない」などと言われ家族が集められてから。
 半日は、ここにこうしていた。
 妹は目覚めない。
 看護師も医者も俺たちを放って、他の患者の面倒をみている。
 ――――しかし、奇跡とは起こるものだ。
 妹の目蓋がそっと開いた。
「……おとうさん、おかあさん、おにいちゃん」
 小さな小さな声で俺たちを呼ぶ。
 感激のあまり俺たちは何も答えられなかった。涙で視界を覆われ妹の顔がうまく見えない。
「ありがとう」
 さらに言葉。
 涙腺に力を入れる事ができない。
 なのに、なのに、それからどれだけ待っても、続きの言葉は聞こえてこなかった。
 命を奪われた妹の顔はとても晴れやかに見えた。

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暴風雨

 あまりにも巨大な台風が町に飛来していた。
 轟々と吹きすさび全ての物を破壊し進行するそれは地獄か漫画の中の世界のようだ。まるでこの世のものとは思えず、幾人もの人々が真実のあの世へと叩き落されていく。
「お隣さんの様子を見てくるで」
 家族の制止も聞かずに家を飛び出していった父は未だ戻らない。数時間前の事だ。父も叩き落された中の一員になっている可能性は高い。
 不安でいてもたってもいられなくなるが、私がどうしようとも父の二の舞になるのがオチだ。じっと息を潜めて自宅が吹き飛ばないよう祈るしか為す術は無い。
「どうするん?」
 眉を震わせ弟が呟く。母も兄も私も、それには答えられなかった。まだ幼い弟は「どうすることもできない」という状況に遭遇するのは人生で初めてなのだろう。考えてみれば、私も遭遇した覚えは無い。
 みしみしと音を立てる屋根が不安を煽る。
 早く台風が通り過ぎるのを待つしかない。打つ手がないのがこんなにも怖いなんて。
 音楽でも聴けば心は落ち着くだろうが、そうする気力すらない。ただ、この場から移動するのさえが怖い。
 どん。
 ――突然、玄関の方から物音が聞こえてきた。何かがぶつかったような音だ。これまでにも何度か耳にしている音。それが家の壁面を破壊しないという保証はない。
 が、今回もものは様子が違っていた。
 どん、どん、どん。と、何度も音が鳴るのだ。その意味に初めに気付いたのは母だった。
 すぐさま玄関へかけ、一か八か、扉を開ける。
 
 後ろから私がのぞくと、そこには、父が立っていた。
「遅くなってすまん。お隣さん連れてきたでな」
 父の背後には数名の男女がびしょぬれで震えている。
 それを見て、私の胸中にあった不安は消し飛んだ。

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